
「体罰」と「愛のムチ」は、同じだろうか?以前、ネパールの武道研修生の
ブペンドラ指導員にたずねてみた。ネパールでも「愛のムチ」と言う言葉は、あり「愛のムチである体罰は、必要」だとわたしに答えた。
指導をする上での「愛のムチ的な体罰」は、肯定できるのだろうか。
最近、私なりにその答えを見つけた。それは、「愛のムチ」「体罰」は、異質のもので"="(イコール、同じ)ではないと言うことに気がついた。また、また、体罰を"悪"とする風評も間違い であると考える。悪いことをした子どもに罰を与えるのは、当然ののことであり「罰」を与えなければ心底から気がつかない。言葉で分らないものは、げん骨でも分らないが「痛み」は、理解できる。「悪い」と言うことを体感する。そして、悪い好意をすることに注意を払う。
「体罰」は、良いことであって悪いことではない!
この行為は、愛のムチと称する行為とは、異とする行為であることにも気がついた。この行為を美化したり間違えて置き換えてはいけないと思う。
鞭は、西洋では、牛追いなどが使用したり鞭打ちの刑などにも使われた。日本にも百叩きの刑などがあったがこれは、愛の鞭とは、考えらない。教鞭をとるという言葉があるがそもそも日本の寺子屋には、黒板がないのだから指揮棒もなく指揮棒が鞭になったのは、近代の日本と考える。おそらく乗馬から「ムチ打つ」の由来が来ているのだろうと考える。100mを6秒で走る馬に「ムチ打つ」ことで5.8秒で▲0.2秒縮める能力を引き出すために鞭打つのである。これらの流れからも、愛の鞭などとすりかえたり美化しない方が良いと考える。 愛のムチと称して与えた指導者も「本当に良くなってくれるだろうか?ケガは、ないか?この行為は、正しいか?」と夜も眠れないほど悩み「過度のストレス」を感じる。「愛のムチ」などは、し無い方が楽である。
※最後に、教育的な体罰行為などは、全て愛情を持って行なう行為であると思うが「慣れていない人と!感情的!」にやる人は、資格のない人である。自身がシゴキで鍛えられた経験、しかられた経験が十分でないと「怪我」の原因になるし「事故」にもつながる。最近、叱り上手な指導員や先生をほとんど見ない。 社会の風潮で「体罰」を悪いことに成っているからである。褒めてやることも大切だが叱る事も大切だ。もし、「叱る」こと「体罰」が上手で経験が十分ある先生がいたら率先して学ぶようにした方がよい。高校時代の私の剣道の先生に長嶺耕史先生がいた。かかり稽古で突き倒されたり投げられたりしてフラフラになったとき、そっと抱いてくれて小声で「良くがんばった!」と囁いてくれた。高校1年の時と思うが今までにない感動と奮い立った!
全日本拳法会最高顧問 大橋千秋