指導をする上での「愛のムチ的な体罰」は、肯定できるのだろうか。
最近、私なりにその答えを見つけた。それは、「愛のムチ」「体罰」は、異質のもので"="(イコール、同じ)ではないと言うことに気がついた。また、また、体罰を"悪"とする風評も間違い であると考える。悪いことをした子どもに罰を与えるのは、当然ののことであり「罰」を与えなければ心底から気がつかない。言葉で分らないものは、げん骨でも分らないが「痛み」は、理解できる。「悪い」と言うことを体感する。そして、悪い好意をすることに注意を払う。
「体罰」は、良いことであって悪いことではない!
この行為は、愛のムチと称する行為とは、異とする行為であることにも気がついた。この行為を美化したり間違えて置き換えてはいけないと思う。
鞭は、西洋では、牛追いなどが使用したり鞭打ちの刑などにも使われた。日本にも百叩きの刑などがあったがこれは、愛の鞭とは、考えらない。教鞭をとるという言葉があるがそもそも日本の寺子屋には、黒板がないのだから指揮棒もなく指揮棒が鞭になったのは、近代の日本と考える。おそらく乗馬から「ムチ打つ」の由来が来ているのだろうと考える。100mを6秒で走る馬に「ムチ打つ」ことで5.8秒で▲0.2秒縮める能力を引き出すために鞭打つのである。これらの流れからも、愛の鞭などとすりかえたり美化しない方が良いと考える。 愛のムチと称して与えた指導者も「本当に良くなってくれるだろうか?ケガは、ないか?この行為は、正しいか?」と夜も眠れないほど悩み「過度のストレス」を感じる。「愛のムチ」などは、し無い方が楽である。
※最後に、教育的な体罰行為などは、全て愛情を持って行なう行為であると思うが「慣れていない人と!感情的!」にやる人は、資格のない人である。自身がシゴキで鍛えられた経験、しかられた経験が十分でないと「怪我」の原因になるし「事故」にもつながる。最近、叱り上手な指導員や先生をほとんど見ない。 社会の風潮で「体罰」を悪いことに成っているからである。褒めてやることも大切だが叱る事も大切だ。もし、「叱る」こと「体罰」が上手で経験が十分ある先生がいたら率先して学ぶようにした方がよい。高校時代の私の剣道の先生に長嶺耕史先生がいた。かかり稽古で突き倒されたり投げられたりしてフラフラになったとき、そっと抱いてくれて小声で「良くがんばった!」と囁いてくれた。高校1年の時と思うが今までにない感動と奮い立った!
全日本拳法会最高顧問 大橋千秋
私は空手をしている者です。
返信削除体罰という言葉に違和感を感じます。
息子は3人いますが、長男は柔道と空手、次男は中学の柔道部のキャプテンをしています。
この息子2人にはよく柔道の道場稽古の時に手を上げました。
体罰?
手を上げるときの理由は唯一つです。
集中力が散漫な時です。
そんな時に怪我をします。しかも大きな怪我になる場合があります。
更に、練習相手にも怪我をさせる場合もあります。
自分だけでなく相手も練習できない期間が生まれます。
大事な試合前だったらどうでしょう?
武道で死人が出る場合のほとんどは、ふざけていたり、集中力がなかったりした時です。
練習の相手が死んでしまったらどうでしょう?
結果論ですが、その前に「集中しろ!」とげんこつで防げる場合もあると思います。
武道でもスポーツでも自由で楽しく、自分でしっかり集中して稽古・練習を行えればいいんです。
しかし、人間は弱く楽でただ楽しい方向に行ってしまいます。それは本当の自由ではありません。
「自由と放縦(好き放題)の違いを分けるものは規律の有無である。そして、社会に出て自由を享受する以前に、イギリスの上流階級はその自由を自由たらしめる規律を徹底的に身につける訓練を行うという。それがパブリックスクールの教育である。」
上記のことが学校教育では残念ですができていません。ですが、武道の教育(礼儀・作法等)ならできると信じています。
これは、「体罰」では、ありません。そもそも、武道は、相手を殺傷する危険な技術を要します。まだ、未熟なものや心に整理が出来ていないものは、閉め技、関節が決まり「マイッタ」をしているのに止められない者には、しっかり叱り、このくらい危険だと言う事を「体で体得」させねばなりません。これは、理屈や説明では、出来ない指導の手法です。
削除体罰とは、極端に言えば、窃盗や暴力など法や道徳に背いたものに与える罰で「牢屋」に入れたり「死刑」もそうです。体罰するものも、なかなか、プレッシャーがかかるものです。