2011年7月19日火曜日

「武とは」 師範:近田孝夫

かつて「武」は「撫」で、矛(武力を示す)を止める意味だと説いていた。
「武は撫なり。止弋(しか)なり」(『説文解字』)
確かに武という字は「止」と「弋」という二つの部分から成り立っている。相手の武力を抑えるのが武本来の意味であると解釈するのも分からないではない。しかし、「止」は足の象形で「歩く」ことを示す。したがって「武」は「武器を持って進む」という意味になる。相手を制御するというより圧倒するといった意味の方が相応しい。
 武にはどうしてもマイナスのイメージが付きまとう。戦闘力の根本を形成しているからであろうか。「暴力反対」という言葉は悪くない。しかし、暴力の定義はと問われて明確に答えられる人は少ないし、それを敢えて突き詰める者もほとんどいない。耳障りの良い言葉として感覚的に使用しているだけなのである。
「痛みを知らない者に痛みを感じることはできない」
最近親の折檻(せっかん)で子どもが亡くなった例が多々ある。我々の世代には信じられない話である。子どもを叱るに手を挙げたことはある。それでも子どもにケガをさせたことはない。手加減するし、何より子どもを良くしようという思いからの行動である。大人が手加減せずに子どもを叩いたら軽くてもケガは当たり前、常識である。
「暴力」の大連呼の中で育った、叩かれたことのない子どもが親になって、叩き方も知らずに手を挙げればどうなるか、ある意味予想の範囲内である。子どもの数も少なくなって親の丸抱えになっている。我が子大事で子どもの世界にまで立ち入る親がいる。子どものケンカにも口を出し、大人社会と同じように両成敗で片付ける。かつて子どものケンカにあった暗黙のルールが今はない。ゲームの世界の闘争(ケンカ)しか知らないで大人となった者は加減を知らない。例え相手が死んでしまっても、画面ではリセットが効くからである。空想の世界と現実との境界線が消えているとしたら恐ろしい。そんな事件が現実に起こっている。親の意識として、実際に腕力を振るうのではないゲームなら安心と思って黙認する部分もあっただろう。親の思いは必ずしも思い通りに子どもに伝わらない。
「暴力反対」の声は、自分の身は自分で守るという原則を忘れさせてしまった。誰かが助けてくれるとでも思っているのだろうか、そんなはずはないから事件が起きる。「常識では考えられない事件ですね」などと解説している世の識者と言われる人間も、既に痛みを知らない世代なのである。
「自分の痛みを感じることのできる人間は、相手の痛みを理解することができる」
 武道を習うことは自らが痛みを体感することにある。強くなりたいと思わない人はいないだろうが、中途半端な意識でついて来られるほど甘くはない。
 拳法会の昇段審査で最も辛いのは連続の立ち合いである。初段の審査では五人掛を完遂しなくてはならない。勝ち負けを競うのではなく、辛い立ち合いに耐えることが求められる。耐えられたことでもう一つ世界が広がる。その積み重ねが「武道」の修行である。

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