2012年4月9日月曜日

「武道教育に思う」    師範:近田孝夫

「武道教育に思う」
 平成二十四年度から中学校で「武道」が必修となります。それを受けて事故の多い柔道を避け、剣道を選択する学校が多いように報道されています。何か議論の視点がずれているように感じるのは私だけでしょうか。

 そもそも武道とは、武術の習得の延長線上にあるはずです。武技、武術を身に着けて人と争う時、勝負であれば敗者は程度の差はあれ障害者になるか死ぬことになります。試合でも師範や熟達者の指導下で約束された立ち合いでなければ危険性は変わりません。本質的に死を背負っての訓練でした。剣道で竹刀が工夫され、防具が考案されたのも弟子が安全に練習に励めるようにということからでした。

 元和偃(げんなえん)武(ぶ)(大坂夏の陣が終わって戦国時代が終息した)と呼ばれる時が来ると、武芸は武士の嗜みとなり、必殺の武技を身に着け、人と生死を賭けて戦う必要がなくなりました。勿論個人的な戦い(「果たし合い)など)がなくなったわけではありませんが、生死についてより深く考究されるようになりました。「(1)剣禅一如」という言葉はそんな中から生まれました。「(2)刹那」を感得することで「(3)もののあわれ」を知り、より道徳的な感性を磨くようになりました。そうして生まれたのが「道」です。およそ「刹那」を感得することで進歩の求められるもの全てに「道」は付きます。武道は固より茶道、華道、香道と、全て同源です。

 武道教育と言いますが、何を求めてのことでしょう。必殺の武技を身に着けさせようと言うのでしょうか。中途半端な技術の養成でしょうか。どちらも違います。「心」の修行を大前提にしての出発であったはずです。しかし、今現実に議論されているのは、

「指導者がいないので○○は採用できない」

とか、

「○○は危険なので○○を採用することにする」

といった便宜的な運用面を前提とした意見ばかりです。

 「指導者が技術者である必要はない」

本来の目的からすれば、講義を受け持つのが武道経験者でなくてはならないという縛りは必要ありません。座して静思するのも武道修行の大事な要素です。その指導ができない教員はいないはずです。

小手先の技術を演錬することで武道を学んだことにはなりません。究極の目標としての武道精神を得ることにはほとんど結び着きません。剣道をしていれば、柔道をしていれば武道に励んでいるということにはならないということを承知しておくべきです。

 

 1 剣禅一如;剣の道と禅の奥義は真理において同一だという考え。

2 刹那;瞬間を意味する。非常に短い時間。

3 しみじみとしたおもむき。

『・・・・・・

試し合い(試合)は、己の技量を試す場で武道の求める目標ではない! 
 平法の剣(塚原卜伝 鹿島新当流)や活人剣(上泉伊勢守信綱 新陰流)は、拳法会と同じく「和の武道」、「幸せの武道」を目指していたと考える。
 競技、スポーツでは、所詮、競い合う事で不安が生まれ、健全なる心の幸せには、つながらない。

勝者は、常に一人! 

その勝者も限りなく闘わねばならぬ! 

常に幻にさいなまれる己のみが残る。

その状況下では、真の「和の武道」は、見つけられない。武道教育とは、幸せの道標(みちしるべ)を示すことにある。
 試合(ためし合い)の愚かな者になってはいけない。そこには「和の武はなく」幸せはない。
 学校で部活動や武道必修化で指導する先生はご留意いただきたい。部活、柔道、剣道、拳法は、健全精神を養うと思う迷信から脱却しなくてはならない。』
        

『拳法会は、幼児武道教育も大切にしている。マットの上で自由に運動させる事により潜在的な能力を引き出し精神の健全性にもつなげたいと考えている。この時期から年長者とも共に稽古し技術の優れた年長者に敬意を払い、同時に年長者にも惻隠の情を育てあげる事が可能である。現在の学校教育で混在しているのは、教師自身が

「スポーツ=スポーツ基本法」「体育=教育基本法」「武道=武道必修化」

の目的役割を明確に理解していないところにある。しかし、拳法会では、指導員は明確に認識している。とは言え全世界の拳法会の指導員が全員認識しているかといえばいささか疑問であるが、ほとんどが現場で体得していると理解している。学校教育のなかで多くの教師が、

「体育教育は、大会で良い成績を修める試合至上主義がよい体育教育だ」

と勘違いしている。保護者も同じで、市内大会あたりで優勝すれば大喜びである。

「体育とは、健全なる体をつくり運動能力を向上させることにより健全な精神・心を育てる事である。記録を伸ばし、試合で勝ち、メダルを取ることは『スポーツ』である」

拳法会の前半の稽古は、突き蹴り、投げなどの武技に重点をおかないマット運動などの「体育教育」に重点をおいている。体育教育を補わなくてはならない現実からである。

そして後半の稽古は、「武道=武士道」の精神・心を育てる稽古・修行に入る。武道教育とは、稽古を通して「日本の歴史、伝統、文化、護身の技を体得させ、修行の中から武士道という精神性を高める教育」である。この時間帯は、大人も子供もない。師も弟子もない! 全てが未熟と心得ている求道者なので先生も生徒と共に汗を流し、道を説き、求める。

例えば、九月十八日の訓えの言葉は、

「一度の善行は、千回の善話に勝る」

と、

「本年六月二十四日に施行された"スポーツ基本法"第十七条と十八条の矛盾を考える」であった。    

世界拳法会連盟会長 大橋千秋』



これは私の所属している「全日本拳法会」の会長の講話を転記したものです。いみじくも「武道」の本義を語っています。

勝つことを至上とする意識からは心の豊かさは得られません。勝つことをひたすら追求することと健全な精神を養うことは、現状では決して両立させられません。

柔道がスポーツ化していることは、多くの人が認める事実ですが、武道としての在り方は日本の伝統的な精神でもって再構築できると信じます。

剣道も試合以外ではかなりスポーツ化していると言わざるをえませんが、試合でのガッツポーズの禁止など「道」の部分は辛うじて残っています。

相撲も発生当時の武術的傾向はほとんど残っていませんが、精神性を垣間見ることはできます。試合後のガッツポーズなど、改善すべき点は多々ありますが、今後の指導如何でしょう。

本年から導入される「武道」の授業では小手先の技の指導ではなく、心の在り方に重点を置いた本質的な武道教育を目指して欲しいと思います。

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