平和について考える。 8月 15 日は、終戦記念日です。
「侵略・競争より助け合い・共栄」が平和の道。
なぜ日本は、アメリカ、イギリス、オランダ、豪、 NZと戦争をしたのか?
あゆみちゃん:人種差別、文化の違いの対立で戦争が起きる。
ショウ:土地やお金がほしかった。 ⇒日本が貧乏だったから!
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【 関ヶ原の戦い 西軍が東軍に負ける 】
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【戊辰戦争で 西軍に東軍が負け 賊軍 になる】
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【 負けた東軍・東北地方に 政治的・経済的な冷遇 】 ・新政府からのインフラ投資(鉄道・港湾)の後回し ・官営工場の設置など、産業振興(殖産興業)から排除
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【 脆弱な産業構造のまま放置 】 ・近代的な工業が育たず、 気候に左右されやすい農業(米作)に依存 し続ける
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【 相次ぐ飢饉・大凶作 (明治〜昭和初期)】 ・冷害(やませ)の直撃を受け、身売りや欠食児童が溢れる極限の窮乏へ
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【 国家・支配層への激しい「不満」 と怒り】 ・「なぜ自分たちばかりが …」という中央への不信感が爆発 ↓
【 五・一五事件、二・二六事件、満州移民へ 】 ・青年将校による国家転覆計画や、生きるための満州渡航(開拓団)の引き金に
石原莞爾(いしわら かんじ)らの行動は、日本の憲政史上最大の「統帥権の干犯(軍の独走)」であり、天皇や政府の意向を完全に無視した クーデター的な侵略 でした。
石原莞爾がまさに 「東軍(山形県・旧庄内藩)」の系譜を引く人物であった 。
石原たちの独走と、その背景にある「東軍」としての因縁
1. 石原莞爾のバックグラウンドと「東軍の怨念」
満州事変( 1931年)を首謀した関東軍の作戦参謀・石原莞爾は、 山形県鶴岡市(旧庄内藩)の出身 。
· 庄内藩の歴史 :庄内藩は戊辰戦争において、会津藩と並び「旧幕府側の最主力(東軍)」として新政府軍を圧倒的な軍事力で苦しめた藩です。そのため、維新後は薩長中心の明治政府から冷遇された歴史を持 つ 。
· 中央(薩長)への反発 :石原は天才的な軍事思想家でしたが、陸軍の主流派(薩長閥の流れを汲む陸軍省や参謀本部の上層部)からは異端児扱いされていました。石原自身、中央の官僚主義的なエリートたちを激しく嫌悪した。
2. 天皇・政府の反対を押し切った「独走」
1931年 9 月 18 日、石原莞爾や板垣征四郎らの関東軍は、柳条湖で南満州鉄道の線路を自ら爆破し、それを中国軍の仕業に見せかけて攻撃を開始した(満州事変)。
· 昭和天皇の反対 :昭和天皇は平和を望み、軍の戦線拡大に強く反対していました。事変中も、これ以上戦火を広げないよう何度も不拡大の方針を示した。
· 若槻内閣(政府)の無力化 :当時の若槻礼次郎首相や幣原喜重郎外相は「不拡大方針」を閣議決定し、国際社会との協調を守ろうとした。しかし関東軍は「現地軍の自衛行動である」と言い訳し、政府の命令を完全に無視して満州全土を占領した。
· 満州国の強行建国 :翌 1932年、政府や国際連盟の承認がないまま、清朝最後の皇帝・溥儀を担ぎ出して「満州国」の建国を宣言した。
3. なぜ独走したのか?「東軍」の思想的爆発
石原が中央の反対を押し切ってまで満州国を作った根底には、彼独自の 「世界最終戦論」 という思想がありました。
「いずれ東洋の覇者(日本)と西洋の覇者(アメリカ)が人類の生き残りをかけた最終戦争を行う。そのために日本は、薩長が作った狭い島国の中で内輪揉め(貧困や政争)をしている場合ではない。満州という広大な新天地を獲得し、五族協和(日本人・満州人・中国人など)の王道楽土を築いて国力を蓄えるべきだ」という確信です。
ここには、 「薩長が作った腐敗した近代日本(農村を飢えさせる国)を、満州という外地からリセットして塗り替える」 という、東軍出身者ならではの強烈なアンチテーゼ(反抗心)が含まれていた。
歴史の皮肉
石原たちが天皇や政府のコントロールを破って満州国を作った結果、日本国内では「軍隊は政府の言うことを聞かなくてもいい(既成事実を作れば勝ちだ)」という風潮が決定づけられた。
これがのちに、東北の貧困を背景とした青年将校たちによる 「五・一五事件」や「二・二六事件」 といった国内の暴走へ繋がり、さらには石原自身の意図に反して 日中戦争の泥沼化、そして太平洋戦争へと日本を突き動かし た 。