2012年2月26日日曜日

教育とは!指導者とは!「拳法会指導者は、教育に対するブレナイ軸を養え」

寺小屋教育教育の果たすべき役割
              拳法会師範 近田孝夫
教育の荒廃が叫ばれるようになって久しくなりました。大方の人は、教育は学校に於いてのみ行われると思っているようですが誤りです。教育には家庭教育、学校教育、社会教育と、大雑把に見ても三本の柱があります。
何時頃からでしょうか、家庭教育の崩壊があり、次いで学校教育が破綻していきました。社会教育は遠の昔に機能しなくなっています。そんな中で学校にだけ教育の責任を押し付ける親が増えました。教師の懲戒権を奪い取り、最低限の家庭教育すら施してない子どもを学校に押し付けたらどうなるでしょうか、答えは自明です。「体罰」は本来家庭教育の範疇にあります。しかし、叩かれた痛さや加減を知らない親が子どもに「体罰」を与えるとどうなるか、これまた自明です。健全に成長させるための方策が真反対に作用すれば、しなかった方が好かったという結果になります。その見極めのできない親が多すぎるように思うのですが如何でしょう。
我々が育った頃は、子ども社会とでも言うべき環境がありました。学年が縦軸を構成し、同級生を横軸とする、組織とは意識されない構成でしたが充分機能的だったように思います。縦軸は「上位下達」式でしたが、決して筋の通らない押し付けばかりではありませんでした。横軸がそのブレを緩和させる役割を果たしていたからです。横軸のブレは縦軸の抑制が修正しました。イジメも無かったわけではありませんが、限度がありました。仲間外れにされても、元に戻れるように方法を諭してくれる存在がありました。上級生になるとそれぞれの役割が自然に決まったように思います。小学校の通学も地域ごとに集まって、上級生が下の子の面倒をみたものです。その形態は今も残っていますが、上級生の指導性はほとんどなく、いわば便宜的な集団に過ぎません。
学校が「知育」偏重の場となり、家庭が社会の常識を教えなくなったとしたら、どこで健全な社会性を身に着けるのか。重要な課題です。保護者も学校に要求するのは基本的に「知育」一辺倒です。ちょっと前にあれほど声高に叫ばれた「ゆとり教育」も、文部科学省の思惑通りには機能しませんでした。それも当たり前で、世の大多数の思いと現実とのギャップを無視した出発でしたし、日本人の志向を考慮した施策ではなかったからです。父母が求めるのは子どもの成績の上昇(「知識を増やす」とか「教養を高める」ではなく、もっと現実的に点数が取れること)だけだからです。ゆとり教育の場として設定された「総合的な学習」という科目も、正しく機能していた学校が現実的に判断してどれほどあったでしょう。小中学校はまだしも、高等学校、特に普通科では当初から邪魔者扱いだったはずです。親(保護者)の要求を満たすにはとんでもない足枷となりました。土曜日が休日になって授業時間の確保が難しくなった上に、必修科目として居座るそういった科目を採用するには主要教科の時間を減らすしかありません。補いは休暇中の補習になりました。学校での就学時間が減った分、子どもたちに塾通いの増やされた例が報告されています。それなのに全国平均で子どもの基礎学力は確実に落ちています。抜本的に考える必要がありそうです。
「遊びをせんとや 生まれけむ  戯れせんとや 生まれけむ  遊ぶ子どもの 声
聞けば わが身さへこそ 揺るがるれ」      『梁塵秘抄』
後白河法皇の編集されたとされる『今様』の歌詞である。子どもは遊びを通じて健全な発育を遂げるということを否定する人はいないでしょう。しかし、現実には遊んでいる子どもの姿を見ることは稀になりました。逆に言えば遊んでいる姿を見ると違和感を覚えるほど外で遊ばなくなっています。高校生くらいになっても刃物を満足に扱えなかったり、昆虫に触れられなかったりする子が増えました。世の常識を知らないは当たり前で、知っている方が珍しいという状況も起きています。何ともおかしな話です。かつては「漫画しか読まない」と嘆かれましたが、最近は「漫画も読まない」といわれます。反面、大の大人が四苦八苦しているコンピュータなどはいとも簡単に操作してのけます。遊びもコンピュータ画面で大活躍するキャラクターに自分を同化させることで済まされます。超人的な活躍を自分の分身が行っていると思い込めば、実際には動かされていない自分の身体が動いていると錯覚するのです。子どもの多くがそんな頭でっかちになっています。反面、子どもの体力の低下は厳然と数値に顕れています。
「切磋琢磨しなければ健全な成長を遂げられない。対人の活動を経なければ公序良俗を理解することはできない。競い合うことで成長すると考えれば、競わなくなったことで確実に成長は止まる」
親が丸抱えしている状況では競うことはなくなります。欲しがるままに与えられるから、がつがつしたところはなくなるでしょうが、自活意識も育ちません。親の傘の下で庇護されているので自立心も育っていかなくなります。学校でも競う意識を持って取り組まれるのは学業成績の結果だけです。親もそれが満たされれば満足するのです。本来やらなくてはならないことも、やりたくない(やっても結果が出そうもない)ことは「できません」と言ってそっぽを向きます。手を着けようともしません。失敗することのデメリットのほうが現在では大きいからです。
何時の世も、子どもは親の期待に応えようと努力します。問題なのは親の過期待です。親の期待に応えられない時、二種類の行動が始まります。単なる親への反発は時が解決しますが、問題なのは反社会行動です。自制心の育っていない(育つ環境に置かれていないと言った方がよいのかもしれない)子どもは当然非常に個人主義的になっています。それが衝動的に行動を起こす時は常識では考えられない結果をもたらします。識者と言われる人の、結果からの解説は往々にして納得できません。こじつけや常識からの判断ばかりで答えになっていない場合が多いからです。マニュアル通りに説明できないから「衝動」なのですが、教育論者の教科書の中に「無知の衝動」についての解説はないようです。
日本ではかつて、「お天道様」が行動の制御に多大な影響を持っていました。
『お天道様に誓って、・・・』
『お天道様はお見通しだ』
『お天道様に恥ずかしくないの』
などという言葉を使ったり、聞いたりしたことがないでしょうか。「お天道様」とは何でしょう。「正義」と置き換えることもできますが、それだけでは十分でなさそうです。
私はこれこそ日本の「心」の原点であると信じています。日本人の「心」のあり方の多くは儒学思想に言う「五倫」(「五常」とも言う。仁・義・礼・智・信という五つの徳目)に基づいて成り立っています。肩肘を張らなくても受け入れられる程度に加減されたそれは、思いやりの精神として日本人の心の根幹をなしていました。
幕末に日本を訪れた外国人が驚嘆した日本、その理由は幾つかありますが、第一に清潔なことでした。裏通りに入っても塵芥一つ落ちていない景色は驚異的なものであったといいます。ヨーロッパの国を旅して感じたのは、表通りの美しさと裏通りの汚さのアンバランスでした。それこそ裏通りは犬の糞だらけで,足を置くのも躊躇されるほどでした。最近の日本ではあまり見られなくなりましたが、私の子どもの頃には公道であっても道に面した家の人によって毎朝掃き清められていましたし、ゴミのポイ捨てなど考えられない行為でした。第二は人々が礼儀正しいことです。行き交う人が無意識に目礼をする。あるいは声に出して挨拶をする。道を譲り合う。それが自然に行われていたから驚嘆に値したといいます。第三が教育水準の高さでした。庶民でもかなりの人に読み書きや計算のできたことが知られていますが、正規の学校教育(ヨーロッパ人の考える初等・中等教育)がスタートする以前だったのに、それを超える教育水準を持つ国があったということですから、西欧人には驚異的なことだったでしょう。彼らの常識を遥かに超えた文化水準にあった国、それが日本だったのです。
日本の教育を下で支えたのが「寺子屋」でした。名前が示すように中心となったのは地域に必ず有った寺であり、そこの住職でした。勿論寺ではなく大地主や神官がその役割を果たした例も多々あります。一宮では、寺ではありませんでした。向学心に燃えた青少年は仕事を終えた夜間を学習の時間としました。場所と教員の確保、向学心、どれが欠けても成立しない中で上手く機能してきたのは日本人の資質にもあったと思われます。
現在、学校教育で初等・中等教育は「義務」となっています。教育の普及という面では頂点に達しているといえるかもしれません。しかし、知識と同時に普及されるべき礼節や道義は学ばれていません。国旗の掲揚、国歌の斉唱の為されない学校があって、そのことを手前勝手な理屈で糊塗していたのがその証拠の一つです。世界の何処に、独立国家でありながら国旗を掲揚しない国や国歌を式典で斉唱しない国があるでしょう。外国人は国旗や国歌をとても大事に考えていますから、そんな日本を変だと感じるらしく、「どうして国旗や国歌を大事にしないのだ」と外国の友人に問われたことがあります。
礼節や道義を教える場所としての学校は破綻してしまいました。残念ながら学校やそれを統括する国の機関に抜本的にこの問題を解決させえる人材はいないのではないでしょうか。しかし、今なら市井にはまだ善導できる人がいます。

『「武徳」なくして真の教育は有り得ない』
これは我々の主張です。日本の武士道に憧れ、真摯(しんし)に学んでいる欧州の人の数は驚くほど多くなっています。日本人は己の学ぶ道だけを正義として、他を排除しようとしますが、欧州のもののふ達(日本の武道を学ぶ人)は「全てが我が師」として真剣に受け止め、自分の足しにしようとします。このまま推移していけば、日本人が「もののふの道」を欧州の武士に学ばなければならなくなってしまう日が来るかもしれません。そうなってからでは遅いのです。
「武道」は剣道を習っていれば、柔道を習っていれば身に着くというものではありません。競技化した状態の中で試合に勝つことを至上とする練習では「武士道」精神は成り立ちません。厳しい練習の中で、刹那(せつな)の判断を下す訓練を積んで、何事にも動じない心を養い、正義を貫くことが「武士道」であると規定すれば、小手先の技を磨くことで勝ち負けを競うのは「道」ではありません。練習の場で武道を学んでも心の修行になっていないのは、履物の散乱している玄関先を観、道場に入っても外と何ら変わらない立ち居振る舞いをする練習生に注意もできない指導者のいることでわかります。
「一穂(いっすい)の火をもって燎原(りょうげん)の炎となす」明治期の武士(もののふ)の様に世界に賞賛される人士を育てたい。そのために、単なる便宜でしかない年齢を超えた「学びの場」が必要不可欠となります。真摯な修行は年を追うごとに確実な結果を将来します。着実に積み上げたものは決して崩れません。部分で能力の差は出るかもしれませんが、総合力では年数の重みを越えるものはありません。平成の「寺子屋」を立ち上げるのは、次代を担う青少年に「貫く」ことの大切さを体得してもらわんがためです。
「寺子屋教育」で目指すのは自信を身に着けた子どもを育てることに尽きます。

この文章を浅い先生にも送付して下さい。浅井先生のアドレスが上手く呼び出せませんでした。押忍!

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