2026年5月23日土曜日

平和について考える。「侵略・競争より助け合い・共栄」が平和の道! なぜ日本は、アメリカ、イギリス、オランダ、豪、NZと戦争をしたのか?

平和について考える。 815日は、終戦記念日です。

  「侵略・競争より助け合い・共栄」が平和の道。

なぜ日本は、アメリカ、イギリス、オランダ、豪、NZと戦争をしたのか?

  あゆみちゃん:人種差別、文化の違いの対立で戦争が起きる。

  ショウ:土地やお金がほしかった。⇒日本が貧乏だったから!


関ヶ原の戦い西軍が東軍に負ける

  

【戊辰戦争で西軍に東軍が負け賊軍になる】   

負けた東軍・東北地方に政治的・経済的な冷遇 ・新政府からのインフラ投資(鉄道・港湾)の後回し ・官営工場の設置など、産業振興(殖産興業)から排除

  

脆弱な産業構造のまま放置 ・近代的な工業が育たず、気候に左右されやすい農業(米作)に依存し続ける

  

相次ぐ飢饉・大凶作(明治〜昭和初期)】 ・冷害(やませ)の直撃を受け、身売りや欠食児童が溢れる極限の窮乏へ

  

国家・支配層への激しい「不満」と怒り】 ・「なぜ自分たちばかりが…」という中央への不信感が爆発   ↓

五・一五事件、二・二六事件、満州移民へ ・青年将校による国家転覆計画や、生きるための満州渡航(開拓団)の引き金に

石原莞爾(いしわら かんじ)らの行動は、日本の憲政史上最大の「統帥権の干犯(軍の独走)」であり、天皇や政府の意向を完全に無視したクーデター的な侵略でした。

 石原莞爾がまさに「東軍(山形県・旧庄内藩)」の系譜を引く人物であった

石原たちの独走と、その背景にある「東軍」としての因縁

 

1. 石原莞爾のバックグラウンドと「東軍の怨念」

満州事変(1931年)を首謀した関東軍の作戦参謀・石原莞爾は、山形県鶴岡市(旧庄内藩)の出身

· 庄内藩の歴史:
庄内藩は戊辰戦争において、会津藩と並び「旧幕府側の最主力(東軍)」として新政府軍を圧倒的な軍事力で苦しめた藩です。そのため、維新後は薩長中心の明治政府から冷遇された歴史を持

· 中央(薩長)への反発:
石原は天才的な軍事思想家でしたが、陸軍の主流派(薩長閥の流れを汲む陸軍省や参謀本部の上層部)からは異端児扱いされていました。石原自身、中央の官僚主義的なエリートたちを激しく嫌悪した。

2. 天皇・政府の反対を押し切った「独走」

1931918日、石原莞爾や板垣征四郎らの関東軍は、柳条湖で南満州鉄道の線路を自ら爆破し、それを中国軍の仕業に見せかけて攻撃を開始した(満州事変)。

· 昭和天皇の反対:
昭和天皇は平和を望み、軍の戦線拡大に強く反対していました。事変中も、これ以上戦火を広げないよう何度も不拡大の方針を示した。

· 若槻内閣(政府)の無力化:
当時の若槻礼次郎首相や幣原喜重郎外相は「不拡大方針」を閣議決定し、国際社会との協調を守ろうとした。しかし関東軍は「現地軍の自衛行動である」と言い訳し、政府の命令を完全に無視して満州全土を占領した。

· 満州国の強行建国:
1932年、政府や国際連盟の承認がないまま、清朝最後の皇帝・溥儀を担ぎ出して「満州国」の建国を宣言した。

3. なぜ独走したのか?「東軍」の思想的爆発

石原が中央の反対を押し切ってまで満州国を作った根底には、彼独自の「世界最終戦論」という思想がありました。

「いずれ東洋の覇者(日本)と西洋の覇者(アメリカ)が人類の生き残りをかけた最終戦争を行う。そのために日本は、薩長が作った狭い島国の中で内輪揉め(貧困や政争)をしている場合ではない。満州という広大な新天地を獲得し、五族協和(日本人・満州人・中国人など)の王道楽土を築いて国力を蓄えるべきだ」という確信です。

ここには、「薩長が作った腐敗した近代日本(農村を飢えさせる国)を、満州という外地からリセットして塗り替える」という、東軍出身者ならではの強烈なアンチテーゼ(反抗心)が含まれていた。

 歴史の皮肉

石原たちが天皇や政府のコントロールを破って満州国を作った結果、日本国内では「軍隊は政府の言うことを聞かなくてもいい(既成事実を作れば勝ちだ)」という風潮が決定づけられた。

これがのちに、東北の貧困を背景とした青年将校たちによる「五・一五事件」や「二・二六事件」といった国内の暴走へ繋がり、さらには石原自身の意図に反して日中戦争の泥沼化、そして太平洋戦争へと日本を突き動かし 

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頑張る高校生!可美武道教室拳法会(可美総合体育館)今の日本人は、「修行」をわすれ競技・試合の勝敗に追われている。

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