2026年9月14日月曜日

「津村諭吉中佐通り(Yukichi Tsumura Caddesi)」がイスタンブール市ベイコズ区の閑静な大通りにあるのか?   拳法会の今日の座学「武士道を貫くには?」Kenpo kai's lecture today: "How to Uphold Bushido?"

「津村諭吉中佐通り(Yukichi Tsumura Caddesi)」がイスタンブール市ベイコズ区の閑静な大通りにあるのか?"Yukichi Tsumura Caddesi" (Lieutenant Colonel Yukichi Tsumura Street) is located along a quiet main road in Istanbul's Beykoz district. Why does a street with this name exist?

       

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平明丸は、シベリア出兵の際にロシアで抑留されていたトルコ人捕虜を母国へ送り届けた日本の貨物船航海:1921年2月、約1,000人(1,012人または1,032人)のトルコ兵捕虜らを乗せてウラジオストクを出航 イスタンブール手前のエーゲ海・地中海付近でギリシャ軍に拿捕され、トルコ人捕虜の引き渡しを要求される。日本側司令官であった津村諭吉中佐が引き渡し要求を断固拒否し、粘り強く交渉を行った。
1. 事件の背景:なぜ日本船がトルコ兵を運んだのか
第一次世界大戦中、帝政ロシア軍の捕虜となったオスマン帝国(現トルコ)の兵士ら約6万5,000人はシベリアへ連行され、過酷な抑留生活を送っていました。
その後、シベリア出兵を行った日本軍がウラジオストク周辺で彼らを発見。当時、日本とオスマン帝国は第一次世界大戦において敵対陣営でしたが、日本政府は人道的な観点から彼らを祖国へ送還することを決定しました。
外務省がチャーターした勝田汽船の貨物船「平明丸」には、トルコ兵捕虜と現地で結婚したその家族を含む1,032名が乗船。大日本帝国陸軍の津村諭吉少佐(のちに中佐に昇進)が輸送指揮官として乗り込み、1921年2月23日にウラジオストクを出港しました。
出港の際、津村少佐はトルコ兵たちに向けて次のように熱いエールを送った。
「私たちは同じアジアの人間です。国へ帰ったら、遠い東に太陽の国(日本)があることを子どもたちに話してほしい。お互いに手を携えて努力しましょう」 
2.「平明丸事件」の勃発と緊迫の船上抵抗
平明丸は順調に航海を続け、目的地であるイスタンブールを目前にしたエーゲ海沖に差し掛かります。しかし1921年4月、当時トルコと戦争状態(希土戦争)にあったギリシャ軍の軍艦に急襲され、拿捕されてしまいます。
ギリシャ軍は「トルコ兵が本国に戻れば即座に我が国に対する戦力になる」と懸念し、「トルコ人捕虜全員をギリシャ側へ引き渡せ」と厳しく要求しました。
ここで指揮官の津村中佐は、以下の理由から断固拒否の姿勢を貫きました。
  • 日本政府から託された人道任務であること
  • 国際法上、中立な輸送を行っている日本船から人を引き渡す謂れはないこと
ギリシャ軍は平明丸を近くのピレウス港へ連行し、武装兵で包囲して圧力をかけました。しかし津村中佐をはじめとする日本人乗組員(田村一得船長ら)とトルコ兵たちは、船上で寝食を共にしながらギリシャ軍に抵抗し続けました。
3.半年以上の抑留と、悲劇の別れ
抑留生活が長引くにつれ、船内の物資や食料は底を突き、衛生状態も急速に悪化していきました。この過酷な状況下で、日本の民間人乗組員を率いていた田村船長がチフスを発症し病死するという悲劇も起きています。
ギリシャ側との交渉が平行線をたどる中、事態を重く見たイタリアが仲介に入ります。
「これ以上船内にとどまるのは命に関わる。信頼できる第三国(イタリア)になら預けられる」と判断した津村中佐は、イタリア領の岩だらけの孤島・アシナラ島(サルデーニャ島近海)へ移動し、そこでトルコ兵たちをイタリア軍へと引き渡す苦渋の決断を下しました。
 ウラジオストクを出てからすでに半年以上が経過した1921年10月のことでした。トルコ兵たちはその後、イタリアの「希望号」という船で念願の祖国トルコへと無事に帰り着くことができました。

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